善光寺堂 善光寺如来

菩提寺の起源

 村内の和平と各家の幸福を願い、第三十四世禅誉上人が願主となり、当時の桜井村・堀内村・東町村の各戸長及び各村の村方の皆さんが発起人となり、長野善光寺如来本尊の等身の寸法を写し、仏師をまねいて当地の人々もたたらを踏んで、善光寺如来像を直接鋳造した。お堂も造営して住職以下、戸長、村役人等15名が尊像を背負い、長野善光寺に参詣して開眼を懇請して盛大な入仏落慶法要を営みました。大正12年に50年目のお開帳を菊人形小屋も7ケ所造り亦見世物小屋もまねいて7日間盛大に勤めました。
 昭和20年1月13日の三河地震によりお堂は全壊しました。当時、菩提寺には名古屋市中村区岩塚小学校の児童50余名が疎開しており、善光寺堂と本堂で寝泊まりしていました。12日、当時住職真栄上人に霊感あり、善光寺如来像と児童を本堂に移し、13日に地震により善光寺堂は全壊。児童は全員無事でした。当時の人々は善光寺如来様の霊験あらたかさに感銘し信心を深めました。
 40年余経過し材熟したので住職の発起により、桜井、堀内、東町、町内会の讃同を得て、地下戒壇めぐりを備えたお堂を再建しました。

毎年1月9日に七草法要を勤修(内容:善光寺如来御開帳、ご祈願、法話、お守り授与、御印文頂戴、戒壇めぐり、七草粥の接待等)しています。

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